へんろ道について思うこと

(注)過去に投稿した内容を上書き修正しました。

幹線道路のへんろ道は、できれば通りたくありません!
特にきちんと区分けされた歩道が整備されていない道路では危ない思いをします。
● 減速しない・歩車間隔を取らないなど、交通弱者への思いやりが欠けたドライバーが存在します。
● スマホ、カーナビ、カーテレビなど、車の中にある機器がよそ見を助長するものとなっています。

市街地以外では道路を歩く人も少ないし、歩道が良くなることを期待するのは財政事情からも難しいと思います。今のままでもドライバーのマナーが向上すれば、問題はかなり改善されますが、歩道の整備にしろ、ドライバーのマナー向上にしろ、すぐには改善が見込めません。

すぐに取れる対策としては、危険な道を避けることです。
八十八ヶ所を巡る中で次の札所に向けてさらに心身を清らかにしていくことが遍路修行だと私は思っています。自分が穢れて(気枯れて)しまうような危険な道路は、この観点からも避けた方が良いように感じます。

お遍路さんの数もだんだん減少してきているようです。手入れの行き届かない山道のへんろ道はいずれや廃れる可能性もあります。
へんろ道とされているところにこだわらず、また遠回りをいとわず、状況に応じて自分が適当と思う道を選択することも必要だと思います。

なお、私は当初、ガイドブックのルートにしたがうことがお遍路だと思っていました。走りだと進行が速いのでちょこちょこマップを確認しなければいけません。そうしたら、お遍路の風景が記憶にはっきり残らないことに気が付きました。地形や、昔や現代の道しるべなどでルートが見えてくることもあります。しっかり顔を上げて自分の感覚を働かせたり、地元の人にも尋ねたりして土地々々の地理を肌で感じながらお遍路することが大切だと痛感しています。

本当の自分を現すための修行、無我の境地

お遍路を始めて、自分の中に別の自分がいると感じるようになりました。煩悩に支配された自分を本当の自分だと思っている人は多いと思いますが、本当の自分は別にいます。

世知辛い世の中で生きていると、どうしても利己的になり煩悩にまみれるのは仕方がないことです。肉体の一部である脳は自分の肉体を守り・喜ばせようとする働きを行います。
しかしこれでは、自分は何のために生きているのか、本当のことがわかりません。

人間の感覚はあることを考えたとたん、感覚で得られる情報のうち必要なことを抽出して認知します。だから、過去やこれから先のことにとらわれて、いつも考え事をしている人は、常に五感にフィルターが掛かった状態になっています。本当ならば、もっと多くのことが見え、音や声が聞こえて、いろんなことがわかるはずです。
「今」をきちんと認識し、「今」を楽しんでいるかが、感覚を有効に正しく機能させているかの判断基準です。例えば、おいしい食事をとっているにもかかわらず、明日の不安のことに気をとらわれて味がまるでわからないでいるようでは「今」が台無しです。
また、お遍路をしているときに、仕事など日常生活のことに気を奪われることがよくありますが、そんなときは十分にお遍路を楽しめていません。頭が真っ白な無我の境地になったときに、お遍路をしていることそのものに幸せを感じ、心が穏やかになり、あらゆるものに感謝の念が湧いてきます。

あふれる情報に自分の気が奪われがちな世の中で、人それぞれに与えられた役目・使命を認識しそれを果たすためには、煩悩を生み出す頭をできるだけ使わないことが実は大切ではないかと思ったりします。それには心の奥底にある、本当の自分を現すための修行が必要です。
“無我の境地”がポイントだと思いますが、残念ながら日常生活の中でこの境地を得ることは難しそうです。これまでの経験で1週間くらいの区切り遍路をしたときに無我の境地になることがありました。短期の区切り遍路ではすぐに日常生活に戻りますから、やっぱり通し遍路が良いのかもしれません…

区切り遍路について思うこと

(注)過去に投稿した内容を上書き修正しました。

区切り遍路はその都度日常モードから修行モードへの切り替えに心身を慣らすために、いつもしんどい思いをします。
お遍路中は煩悩を滅するためにできるだけ頭を働かさず、心を働かせるように心掛けますが、特に初日は日常のことが頭に次々と湧き出てきます。日ごとに収まってきますが、区切り遍路を行うたびにこのような期間がありますので、何かもったいないです。

なお体力的には、日ごとに疲労が溜まってくるはずですが、不思議なことにエネルギーが満ちていくように感じます。帰宅したらどっと疲れが出ますので、単に気が張っているだけでしょうか?

“自己に頼れ、法に頼れ”(釈尊の最後の教え)

釈尊は自分の死に際し、嘆き悲しむ弟子たちに向かって次のように述べた。

私はみんなが自分を頼りにしているなどとは思わなかった。
自分はただ、人々のよるべき真理、真の生き方というものを明らかにしただけなのだ。

この変転、常ない世の中では、まず自分に頼るべきである。
自分はこの場合にどうすべきかということを、その場合その場合に考えることだろう。
この場合、何を判断決定の基準にするのか。
それは人間としての道、「法(のり)」である。この人間の理法というものに頼ることだ。

つまり“自己に頼れ、法に頼れ”と。
これが釈尊の最後の教えであった。

【仏教の本質 哲学者「中村 元」(YouTube)】


昔の日本には少なかった、自分の幸せのために平気で人をだましたり、脅したりするような道徳心に欠けた言動や犯罪が今の社会に当たり前のように広がっているのを見るにつけ、“人として正しく生きる”と覚悟することの重要性を改めて感じます。
幸か不幸か(生活レベル)ではなく、“生き方の美しさ”で人生の善し悪しをはかりたいものです。

矢印だけの道しるべ

四国各地にある矢印だけの道しるべ。
ひとつ見つけたなら、そこからつながる四国遍路一周。
いつからでも、どこからでも、どなたでも。

途中で止めるも、再開するも、何周巡るも自由。
ちなみに、巡り続けて止められなくなる状態を「お四国病」と言う。